日記の改訂について

日記のデザインを改訂するとともに、京都を離れて以降の記事の大半を消去しました。
理由は、彦根以降の日記を久々に読み直してみて、大半が公開する水準に達していないと感じたことにあります。
簡単に言うと、この辺の日記は、自分で読んでも全然面白くないということです。


一方で、京都時代の日記も、他人が読んだら面白くないかもしれませんが、
これらの日記は、少なくとも僕にとっては面白い(というか、反省も含めて「意味がある」)と思えたので
掲載を継続することにしました。


彦根以降の日記が面白くない理由はいくつかあるのでしょうが、
僕が思うには、彦根以降は、自分の感性がほとんど死んでしまったために面白くなくなったのではないか、と思っています。
彦根以前は、京都という環境が、自分の感性が死ぬのをなんとか防いでいてくれたからかもしれません。
それは京都の、盆地特有の気怠い空気感と、古都特有の既視感を与える景色、つまり、自分が何年経っても全く前に進んでいないような感覚を日々覚える風景、そして、至る所にお墓や人が死んだ場所がある、という特性によっていたのだろうと思います。


京都にいた頃は、僕は道元正人のお墓と、大村益次郎遭難の地(三条小橋のたもと)によく行きました。
道元正人のお墓の前を通る時には、「禅の道に一生を捧げる」つまり「座禅と修行に明け暮れて、一生を終わっていく」とはどういうことなのか?と常に考えていました。道元の墓に何人もの僧が訪れて、儀式を執り行うのを見て、自分が死んでから数百年たった後、
自分の墓には誰か訪れるだろうか?と考えたものでした。


大村益次郎遭難の地、つまり大村益次郎が暗殺された場所を通るときには、彼が刺客に体を切り刻まれた時にはどんな気持ちだったのだろう?といつも考えていました。大村益次郎は刺客に切られた際、下半身が完全に切断された状態になったものの、
数日間存命であったと聞いています。あの時代にどうやって腹部大動脈を切られながら、生命を維持できたのかはよくわかりませんが、下半身を失った状態で、苦痛の中で数日間生きる、というのはどういう気持ちなのだろう?と考えたものでした。


自分の感性が死んでしまったのは、彦根以降一緒になったパートナーも大きな原因の一つではないか、と思っています。
彼女と一緒の空間で生活しながら、自問自答を繰り返すのは、ほとんど不可能でした。
様々な人が様々な形で病を得たり、事故にあったりして、苦しみながら死んでいく中で、自分が偶然にも生きていること、
そして自分もいつかはそうして苦しみながら死んでいくことに対する不安というのは、自分にとっては切実なものでした。
しかし、そうした不安は、彼女にとっては、切実でないのか、少なくとも考えるには耐え難いだけのもののようでした。
そのような不安に対する回答をパートナーに求めても、返答が得られない中で、それでも自分だけに問いかけ続けるには、
自分が弱すぎたのだと思います。


感性が死んだのは、研修医、そしてその後の仕事において、自分が極力「マシーンのようになろう」、と努めてきたことも大きいかもしれません。
仕事には一見理不尽なことがつきものでした。理不尽に長い労働時間、理不尽な要求、自分の経験ではカバーしきれない重い決断。
ただ、そうした理不尽な環境を自分の感性で正面から受け止めてしまうには、やはり自分は弱すぎたように思います。
とはいえ、最近反省するにつけ、人の生き死にに関する決断というのは、そうした感性を殺したままできるほど、甘い物ではない、
ということにも気づくにいたりました。
本当のところは、理不尽な職場環境に日々怒りつつ、不平を言いつつ、しかし、自分の仕事で影響を受ける人達の痛みを心で受け止めながら、前に進んでいかなければならないのだろうと思います。


長々と書いている内に眠くなってきてしまったので、この辺で終わりしようと思います。


これから書いていく日記は、数年後の自分にとって、少なくとも意味のあるものであってほしいと祈って、今日の日記は終わりにします。