豊穣の地

 見てきました。ヴィム・ヴェンダースのland of plenty。日本語にすると「豊穣の地」ですね。多分聖書の文句から採ったタイトルなんじゃないかとおもいますが、映画の中ではカナンの地ではなくてアメリカのことをいっています。どちらかというと皮肉を込めて。
 
 話は、20才の白人の女の子ラナが、小さい頃生き別れになった叔父を探しにロサンゼルスにやってくるところから始まります。彼女はアメリカ生まれのアメリカ人ですが、親が伝道師だったため、小さい頃からアフリカや中東にすんでいました。つまり10数年ぶりの帰国です。
 しかし、彼女が探していた叔父はヴェトナム戦争から帰ってきた後、極度の愛国主義者になってしまっていました。除隊後も日夜ロサンゼルスを(あくまで)自主的にパトロールし、アラブ人テロリストの発見に努めているのでした。朝っぱらからおんぼろのワゴン車で、トランシーバー片手に中東出身と思しき男のクルマを尾行します。携帯の着メロはもちろんアメリカ国歌。ゴミ箱をあさってシュレッダーにかけられた文書を探し出し、相棒の男に復元させます。よく言ってドン・キホーテみたいな男、つまりは気狂いなわけです。
 
 ラナは、しかし、そんな叔父をあっさり受け入れてしまいます。しかも言ってのけます、叔父さんに会いたかった、叔父さん大好き!

この映画の中でラナの包容力はかなり際立っていて、ヴェンダースはラナにキリストをダブらせているのではないか、と思います。アフガン、イラクで散々罪を重ねた叔父(=アメリカ)が、ヨルダン川西岸でアラブ人のために働いていたラナ(キリスト)に受け入れられて贖罪される、という図式とも受け取れます。

が、最近ふられた自分としては、実のところそんなことはどうでもよくて、べつに気狂いが一番の理解者をえた、それだけでいいんじゃないでしょうか。問題は、その理解者がどんな人か、ということで、それが、さえない中年男(サンチョパンサ)であるか、とびきりの美少女(ラナ)であるか、の違いがとても重要に思えてしまうのです。気狂いが理解者を得る話としては、5年くらい前ちょっとしたトレンドを巻き起こしたバッファロー66が思い出されますが、あれも理解者は美少女だったように思います。

虚構の世界を生きている気狂いというのは世界の外に生きているようでも、結局は誰に理解されるか、というところで価値が決定されてしまうような気がします。つまりは、さえない中年男にしか理解されないドン・キホーテは気狂いのままでおわり、きれいなラナに理解された叔父さんはかっこいアウトローへとレベルアップするのです。うーん、なんだか夢がありませんね。

自分としては、むしろ、まったく理解者を持たない気狂いの映画を見てみたいです。そこにこそほんとの気狂いの美学、つまり、自分が決めたルールに従って自分の生き方を作り上げていく姿があるように思うからです。

しかし、こう書いていて思い出す気狂いの映画はピンクフラミンゴくらいで、やっぱり理解者がいないとカルト映画になる運命なのかな、とも思います。で、ピンクフラミンゴ、今見たいか、というと.......正直みたくないです。

ドン・キホーテも....正直あまり読みたくないです。

結局今一番楽しめるのはland of plentyで、きれいな女の子を見に映画館いってるだけなのじゃないか、と思うと、なんだか自分が情けなくなるのでした。

land of plenty いい映画ですよ、念のため。